韓国映画に求められる多様性―中国朝鮮族の描写から考える
中国朝鮮族の少女を通し、社会問題と純愛を描いた 『ダンサーの純情』
しかし、映画が中国朝鮮人のイメージをポジティブに変換する機能を果たすこともできるのだ。
少し古い作品になるが、筆者の忘れられない作品の1つに『ダンサーの純情』(2005)がある。度重なるトラブルに見舞われたダンサーが、中国朝鮮族少女との出会いを通して生きる喜びを見出す感動作である。
最高のダンサーとしてその未来が期待されていた青年、ヨンセ。ところがダンス協会会長の御曹司ヒョンスの妨害によって、その未来を奪われ、さらに最愛のパートナーまでも奪われる。失意のなか、3か月後に開催されるというダンス大会に再起をかけ、新しいパートナーを迎えるのだが、新しいパートナーとして中国からやってきたプロダンサーである中国朝鮮族の少女チェリンは、プロダンサーの姉の代わりに来た、全くダンスの経験がない素人だった。
純粋な心を持つチェリンは、頑張ればできると信じ、ダンスの猛特訓に励む。そんなひたむきな彼女の姿をみて、ヨンセもチェリンを育て上げる覚悟を決め、少しずつ失意から心を取り戻していく。しかしそんな2人の前に、再びヒョンスが現れ、2人をひきさいてしまう。ヨンセ以外のパートナーと踊ることを望まないチェリンは、中国に帰ることを決意するのだが……、というストーリー。
当時「国民の妹」と呼ばれ大人気だった女優のムン・グニョンが、純朴な中国朝鮮族の少女を熱演。1日10時間練習したというダンスはまさにプロ級で、そのダンスシーンに息を呑んだ人も少なくないだろう。
そして、この映画で2人が心を通わせていく過程において重要な要素であるヨンセとチェリンの偽装結婚は、一方で当時、韓国における合法的な住民票の取得方法として、社会問題になっていた。しかし、本作ではそれを温かい目で見守るように描いていく。
そして、中国語訛りの韓国語を話すムン・グニョン演じるチェリンをいつしか愛さずにはいられなくなっているだろう。ある種の社会問題を間接的に描きながら、同時にこの作品ではチェリンの成功を描いており、努力や情熱は、国籍やルーツに関係なく、決して裏切らないことを教えてくれる。
社会には多面性、多様性があり、1つの価値観でそれを見つめることは、理解の限界を必然的に生んでしまう。もちろん、影の部分に焦点を当てることもまた、それは一提起として必要である。だが、エンターテインメントとしての映画を介した場合、限りある時間の中で、それらをすべて受容するのは不可能だろう。
韓国映画の力の源は、テレビや新聞といったメディアが描き切れない、社会の不条理や権力に対し、その抑圧からの解放、そしてその先にある未来を観客に対してアプローチできる描写にあったはずである。だからこそ、先入観にとらわれず、多様性を視野に入れた描き方が、今、求められているのではないだろうか。それはまた、日本に関する描写も然りである。
Text:古家正亨(ふるや まさゆき)
韓国大衆文化ジャーナリスト/韓国観光名誉広報大使(2008年6月~)/ラジオDJ/テレビVJ/イベントMC/帝塚山学院大学 客員教授など、マルチに活躍中 Twitter @furuyamasayuki0
Edited:岡崎暢子(韓日翻訳、フリー編集者)
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