遣唐使が見た長安3 斬新でモダンなファッション|雑誌『和華』セレクション
中国ドラマ好きのための、雑誌『和華』セレクション
毎号1つのテーマを徹底的に掘り下げ、日中文化の魅力を再発見する雑誌『和華』。様々なテーマを取り上げてきた『和華』のバックナンバーから、読んでおくと中国ドラマ鑑賞がより楽しくなりそうな記事をピックアップして紹介します。
『和華』HP:https://visitasia.co.jp/waka/
遣唐使が見た長安
文/『和華』編集部 写真/CTPphoto
(『和華』第25号 特集「時空を超える遣唐使」より)
1000年以上前、遣唐使たちが暮らした唐都長安はどのような都市だったのだろうか? 長安ではどんな風景を見たのか? 長安の面積は84平方キロメートルにも及び、大きさは同時代のビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの7倍、バグダードの6.2倍にも当たる。まさに世界でも類を見ない一大都市であった。日本の平城京は長安を模して作られた。商業が栄え、音楽が響き渡り、文学が花開いていた長安の様子に思いを馳せてみよう。
遣唐使が見た長安・目次
1 にぎわいを見せる長安西市
2 長安西市の人気商品
3 斬新でモダンなファッション
4 歌と踊りが大流行
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斬新でモダンなファッション
文/『和華』編集部 写真/CTPphoto
(『和華』第25号 特集「時空を超える遣唐使」より)
唐代のスモーキーアイメイク
唐代に流行した化粧は、それまでなかった斬新なアイディアだった。女性たちは好んで白粉をつけ、頬に紅をさし、額に「黄粉」(額黄。額の生え際に黄粉を塗る)をほどこし、眉に入墨をした。最も驚くのは、吐蕃の影響を受けた泣き顔のような八の字眉に、血と肌色が混ざり合ったような赤紫のスモーキーアイと黒い口紅である。ここまで言うと、日本の歌舞伎の隈取は唐代からきたと信じる人がいても無理はない。一方、開明的な唐代には美しい素顔のままでいる女性もいて、楊貴妃の姉・虢国(かくこく)夫人がその代表だった。
腰は高く胸は開けて
西安で出土した多くの陶俑女性像に見られる装いは大同小異で、みな貴賎の区別なくハイウエストのロングスカートをはいている。身分や階級は髪飾りや袖の大きさで区別され、大きな袖は皇族が着るもので、庶民は筒袖を着ている。唐の初期は痩せて見える中間色のプリーツスカートが一時流行したが、ひだが多いと生地を浪費するとして、"けち"な唐の高宗と玄宗がプリーツスカート禁止令を出したため、ゆったりしたスカートに取って代わられた。
流行は高髷にかつら
唐代にはかつらをつけることが流行した。木で作ることも本物の髪で作ることもあり、高髷の形は様々だったが、よく見られるのは片側を低くした髷で少数民族のスタイルを取り入れている。かつらを用いたことで有名なのは楊貴妃で、首飾りをつけるように毎日服装に合わせて新しい形にしていたという。
美を愛するのは女性だけではない。史書に、かつらをつけ、紅や白粉を塗り、顔に入墨をする男性の記述がある。美しく装うために彼らは何でもした。足を小さくする女性の纏足の習慣もこの時期に始まった。要するに、唐代の人々は装いに全力を尽くしたのである。
モダンレディは帽子がお好き
隋の文帝が着始めてから、皇帝はみな「便衣」(平服、普段着)を着るのを好むようになった。中でもふだん頭巾をかぶっていた唐の玄宗を庶民が真似て、便衣がファッションの主流になる。
帽子はもともと「野蛮人の服」と見なされていたが、唐代では大流行。上は皇帝から下は庶民まで、特に女性はみな帽子をかぶり、専門店ができて大きなマーケットになっていた。典型的なスタイルはつばのあるベール付き帽子で、メッシュのベールを蚊帳のように垂らすのは、元々西北の少数民族が風や砂を防ぐためのものである。ついで多くの女性に好まれたのは西域や吐蕃の人が用いた胡帽だった。
今回ご紹介した記事は第25号「時空を超える遣唐使」特集に収録!
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出版社:アジア太平洋観光社/星雲社発売 出版年:2020年
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バックナンバー一覧:https://visitasia.co.jp/waka-backnumber
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