「科挙」ってどんな試験?どんな問題が出題されていた?|中国時代劇トリビア#39
前回、婚姻事情をご紹介したトリビアの中で、婿の条件の一つとしてご紹介した科挙。ドラマ「明蘭~才媛の春~」では、あの顧廷燁も大変苦労したこの制度について、今回は探って行きたいと思います!
時代劇でよく聞く「科挙」とは?
「科挙」とは、中国の官僚登用の制度のこと。隋の文帝(587年)から始まり、清末期(1905年)まで実施されていました。科挙試験は中国だけでなく、ベトナムや韓国、日本でもこの方式が採用されていた時代があります。
科挙は広く才能ある人材を登用するために、家柄や身分に関係なく誰でも受験できる公平な試験とされてはいますが、科挙を受けるためには、幼い頃(早い人では3歳くらいから!)から徹底した英才教育を受ける必要がありました。そのため、そうした学費が賄える身分や財産を持った家庭であることが必然となり、実際に受験できたのは、大半が官僚の子息、または富裕階級に限られたそうです。さらに女性や、商人といった人たちも受験資格を得ることが難しかったようです。
「明蘭~才媛の春~」より
そもそも「科挙」を受けるまでのハードルが高い!
科挙試験を受けるためには、科挙の受験資格である国立学校の学生になるための予備試験「童試」にパスすることが課せられます。童試は3年に1回、旧暦の2月に行われ、県試・府試・院試の順で3つの試験を受けます。さらに国立学校必須の学力判定試験「歳試」を受けることになります。これにクリアすると、"生員(せいいん)"、別称"秀才"の名称が与えられ、国立学校への入学資格を得て、支配階級である士大夫の一部とみなされるようになります。
これで十分キャリアアップした気にもなりますが……試験本場は、なんとここから! 科挙本試験の第一段階「郷試」へと受験生たちはコマを進めます。この試験は3年に一度の実施、貢院(こういん)と呼ばれる特殊な試験会場で行われます。
「明蘭~才媛の春~」より
「科挙」では、どのような問題が出題された?
合格倍率3000倍とも言われた難関の試験では、どのような問題が出されたのでしょうか?
唐代の科挙には進士科(詩を作る能力を問う)と明経科(儒教の経典を暗記する能力を問う)がありましたが顧廷燁たちが挑戦した宋の時代では、科目は進士科のみとなり、試験科目は経義(けいぎ・儒教経典の解釈)・詩賦(しふ・詩を作る)・論策(ろんさく・論文)の3科目となりました。論策では政策立案能力が試されながらも、論文の中には古典(経書、史書)からの引用文を披露することも求められ、かなりの難易度だったことがうかがえます。
各時代によって異なりますが、こののち複数の試験を受け、合格となった天才たちは、皇帝の前で受ける最終試験の「殿試」を受け、上級官僚としての未来を勝ち取ることとなります。
「明蘭~才媛の春~」より
超難関「科挙」に合格した日本人がいた
この超難問の試験に、なんと日本人でありながら見事合格を果たした人物がいたことをご存じでしょうか?
奈良時代の遣唐使だった阿倍仲麻呂は、19歳で中国に渡り、27歳で科挙試験に合格します。外国人でありながらもわずか8年間で中国語経典を覚えると言う驚異的な能力を発揮した阿倍仲麻呂は、玄宗皇帝に仕え、再び故郷の地を踏むこと叶わず、異国の地でその生涯を閉じました。
Text:島田亜希子
ライター。中華圏を中心としたドラマ・映画に関して執筆する他、中文翻訳も時々担当。『台湾エンタメパラダイス』『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)にて執筆記事掲載中。
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