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朝鮮王朝・解説まとめ~師任堂(サイムダン)の生きた時代~

7月20日よりテレビ東京で放送が始まる「師任堂(サイムダン)、色の日記」。昨年のDVDリリース時に作品公式サイトにて行われた大特集の記事の中から、放送前に読みたいおすすめ記事をまとめて紹介!

今回は、サイムダンが生きた時代・朝鮮王朝について。1932年に武将・李成桂が建国してから500年以上、朝鮮半島を治めた国家・朝鮮王朝。東アジアでも珍しいこの長い王朝の誕生と消滅までを、かいつまんでご紹介します。

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〇朝鮮王朝の幕開け

朝鮮王朝の幕開けは、14世紀の高麗時代末期(日本では室町幕府・足利義満の時代)まで遡ります。

中国大陸では、それまで勢力をふるっていた元(げん)に代わり、新興国家の明(みん)が台頭しており、元に朝貢していた高麗はこれを機に元との関係を断ち切ろうとするも、元との関係を重視した高麗の?王は、武臣勢力の代表的人物であった李成桂に明への出兵を命じます。

「シンイ―信義―」では、高麗時代、まだ少年だった李成桂が登場する。



ところが、倭寇対策で力をつけていた李成桂は出兵の途中でこの命令に背き、都の開京を攻めるというクーデターを起こします。李成桂は1392年に高麗の恭譲王から王位を継承し、93年に国号を「朝鮮」と改め、94年には都を漢城(現在のソウル)に遷都します。こうして李成桂が興した朝鮮王朝は、儒教を基にした政治理念を掲げ、国王を頂点とした政治機構を確立します。

しかしすぐに李成桂の息子たちによる権力争い(王子の乱)が起きます。

ここで政権を勝ち取った第3代王の太宗は、官僚制度と仏教寺院の力を抑え込む政策を取り、国家財政と国力の強化を図りました。その基盤を基に、第4代王・世宗の時代には政治・経済が安定し、ハングルの創制をはじめ、測雨器や時計などの科学器具も発明されるなどさまざまな文化が花開きました。

世宗の死去後、王位を巡る争いが勃発します。




〇権力を巡る争いと2度の「倭乱」

第6代王・端宗が幼くして王位に就くと、政治が官僚たちの手に渡り、権力の空白が生まれます。この機を利用して端宗の叔父にあたる首陽大君が第7代王・世祖として自らが王位に就きます。

世祖は自らの支持勢力である「勲旧派」で周囲を固め中央政権的な政治体制を敷きます。その一方で地方では、生理学(儒教の中の新しい学問体系)の研究を行い影響力を拡大してきた両班層からなる「士林派」が中央政界に進出し、勲旧派と対立するようになります。

15世紀末、第10代王の燕山君による大粛清が行われます。まず士林派の大規模な粛正を行い(戌午士禍=ムオサファ)、その後、自らの母の死に関連したとされる臣下を派閥を問わず粛正。

燕山君の放蕩と虐政にたまりかねた臣下がついに「中宗反正」というクーデターを起こします。これにより担ぎ出された中宗は第11代王として即位し、士林派を再登用しますが、これが勲旧派の反発を招くなど、政局は安定することがありませんでした。

※※「師任堂(サイムダン)、色の日記」で描かれるのは、大体このあたりの時期※※




中宗(「師任堂(サイムダン)、色の日記」より)



士林派は第14代王の宣祖の代に多く登用されるも「東人派」「西人派」に分裂。
その対立の最中に、朝鮮は豊臣秀吉による2度の「倭乱」(壬辰倭乱、丁酉再乱。日本で言う文禄・慶長の役)に見舞われます。

7年にも及ぶ戦乱は、日本本土で指揮をとっていた豊臣秀吉が死去したことで終焉を迎えます。日本では徳川家康に実権が移ると、家康は朝鮮との国交を回復させました。

壬辰倭乱のさなかに王位を継ぐ世子として冊封されたのが光海君です。

光海君は父の宣祖に代わり、戦においても手腕を発揮しますが、明は、光海君が次男であることからこれを却下。
このことから王位継承をめぐる党派間の対立が激化する中で第15代の王位に就いた光海君は、即位後に自らを脅かす勢力を追放、処刑、幽閉するなどし除去していきます。




〇新政策を取り入れ、内政安定を図る

光海君の政治に不満を抱いた西人派が、党勢の巻き返しを図り、1623年に甥の綾陽君(後の仁祖)を奉じてクーデターを起します(仁祖反正)

仁祖は第16代王に就きますが、宮廷内はさらなる派閥争いでもつれ、加えて外交政策にも失敗。仁祖反正の論功をめぐる争いは金(後の清)を刺激し、2度にわたる侵攻を招きます。


政治基盤が不安定な時代が続くなか、第19代王・粛宗の子である第21代王・英祖は派閥争いを嫌い、各党派から公平に人材を登用する「蕩平策」を実施。これが功を奏し、第22代王・正祖の代にも引き継がれ、政治的な安定がもたらされ、文化面でも国風文化が隆盛するなど発展がありました。


粛宗といえば...悪女チャン・ヒビンを寵愛した王として記憶している方も多いのでは?
(「チャン・オクチョン」より)



このころには朝鮮王朝の統治理念であった儒教・朱子学は空論化しており、「北学」「実学」といった実利を重んじる思潮が台頭しました。やがて実学者の中から天主教(カトリック)に傾倒するものが現れ、両班層に信徒を増やし、宣教師の密入国などがあったため、正祖も強硬な対応を余儀なくされます。




〇「勢道政治」と混乱する朝鮮王朝

1800年に正祖が亡くなると、11歳の幼い純祖が第23代王に就き、国政は英祖の妃である貞純王后が代行。反対勢力の粛正、厳しいカトリック弾圧を行います。正祖に起用されていた実学者らも処刑・追放され、純祖の外戚・安東金氏による「勢道政治」(勢力を握った一族が国政を左右する政治)が始まります。この勢道政治は第25代王・哲宗の代まで続き、その結果、政治は甚だしく乱れます。

繰り返されるカトリック弾圧は諸外国の反発を引き起こし、フランス、アメリカ、ドイツの来航、襲来を経験することになります。

哲宗の死後、第26代王となった高宗も幼く、政治は父の興宣大院君が行い、大院君の失脚後は高宗の外戚・閔氏とその一族が権力を握りました。

高宗(「朝鮮ガンマン」より)



この時期の朝鮮は列強諸国や日本から開国・通商の圧迫を受けていました。国内では、開化派と保守派の対立が激化。閔妃一族は清軍を介入させて保守派の反乱を鎮圧。

1894年に勃発した日清戦争で勝利を収めた日本は、朝鮮から清の勢力を排除し、内政改革に乗り出しました。これに反発した閔妃(明成皇后)らはロシアと手を結び、日本を牽制しようと試みますが、1895年にはその閔妃も謀殺されます。

高宗は暗殺を恐れてロシア公使館に身を避けた後、1897年に国号を「大韓帝国」に改め、自らを皇帝と称します。

その後、1904年の日露戦争でも勝利を収めた日本が大韓帝国の併合を推し進め、1910年に併合されます。

ドラマ「名家の娘ソヒ」は、朝鮮時代末期から日本の植民地時代にいたる激動の時代が背景に描かれている。




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文・キネマ旬報社『韓国テレビドラマコレクション2017』『韓国ドラマで学ぶ韓国の歴史2017年版』
画像の注釈・「師任堂(サイムダン)、色の日記」宣伝スタッフ

「シンイ―信義―」cThe Great Doctor LLC and Master Works Ltd. Licensed by TOUCHSKY Ltd.
「師任堂(サイムダン)、色の日記」cGroup Eight
「朝鮮ガンマン」Licensed by KBS Media Ltd. c2014 KBS. All rights reserved
「名家の娘ソヒ」cSBS


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<放送情報>

2018年7月20日(金)よりテレビ東京"韓流プレミア"にて放送スタート!

毎週月~金曜日 あさ8:15~9:11
テレビ東京「師任堂(サイムダン)、色の日記」ページはこちら


<ブルーレイ&DVD情報>



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音声1:オリジナル韓国語|2:日本語吹替 / 字幕 日本語字幕
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