「李涵」実際はどんな人だった?|中国時代劇トリビア#6
ヴィック・チョウの初主演時代劇ドラマとして、話題を集めた「皇帝と私の秘密~櫃中美人~」。この作品でヴィックが演じた李涵とは、いったいどんな人物だったの?実在していたって、本当!? 今回のトリビアでは、この李涵についてご紹介していきます!
李涵は、李涵をのちに李昂と改名。ドラマでも描かれたように、宦官劉克明と王守澄との対立から、王守澄派によって皇帝に擁立され(李涵18歳)、唐朝17代皇帝文宗帝になります。朝政の実権は王守澄らが掌握しており、その勢いは皇帝の生死さえも左右するほど...。
しかし若き李涵は、志高く国をより良く治めるべく、朝廷内を正し、現代で言うリストラも行い、唐朝宰相李訓らと共に宦官らを排除しようとします。
やがて宦官に対する大量粛清が漏洩すると、李訓らは殺害され、李涵も捕らえられて幽閉(甘露の変)。享年32歳(31歳とも!?)という若さでこの世を去ります。
皇帝という身分でありながら、李涵は礼儀正しく慎ましい性格で、書物に親しむ博学な人物としても知られています。宰相らと詩について語り合うのを好み、自ら詠んだ詩は高い評価を得ていたそうです。
ドラマの中ではキュートな軽風と飛鸞に翻弄されてしまいますが、実在の李涵は色を好まず、勤勉家で家臣の言葉に耳を傾け、倹約にいそしみ、人力・財力をむだにする事をやめさせ、政務に励みました。ドラマの中では、民を大切にした皇帝として、被災した民を助けるべく、被災地に自ら赴こうとする李涵の姿が描かれていました。
そして、皇后はおかず、王徳妃と楊賢妃の二人をそばにおきました。劇中では"優しい"王徳妃と、"したたか"な楊賢妃となって登場するあの二人です。
史実では、李涵からより深い寵愛を受けたのは楊賢妃の方で、楊賢妃は王徳妃とその息子で皇太子となった李永を死に追いやったとも言われているとか。パーティー好きで、悪い仲間とつるんでばかりいたという李永と、太子の素養に欠ける李永の素行の悪さを嫌う楊賢妃らが対立する場面が少なからずあったとされ、李永の処分を巡っては、様々な伏線があったようです。李永亡きあと、楊賢妃の息子である李溶が皇太子候補となりますが、こちらは太子の位に就くことはできずに終わっています。
晩年は幽閉され、宦官たちに実権を全て握られた李涵は、政治的権力を全て失ってしまいます。わが物顔に振る舞う宦官たちをいさめる術もなく、お酒に酔ってわが身を嘆き、その身はいつしか病に蝕まれていきます。そして840年2月10日、尽きることなき憂いを道連れに、この世を去ったということです。
Text:島田亜希子
ライター。中華圏を中心としたドラマ・映画に関して執筆する他、中文翻訳も時々担当。『台湾エンタメパラダイス』『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)にて執筆記事掲載中。
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