【私の履歴書・延 智美(ヨン・ジミ)】第1回 東京生まれの日本育ち
私の履歴書~Profile No.2~
「通訳は裏方の仕事だから、私が表に出るなんて!」と、恐縮されていた延さん。しかし、いざインタビューが始まると、通訳をされているのは勿体ないほどの滑らかな語り口!凡人には決して経験できない延さんの半生に、身を乗り出して聴き入ってしまいました。延さんのインタビュー、必見です。
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両親は韓国生まれ、私は在日2世になります。
元々、私の家は日本と縁が深く、曽祖父は東京外国語学校(現在の東京外国語大学)で朝鮮語を教えていましたし、祖父は日本留学時代に小山内薫に師事し、日本で近代演劇に触れたことで、韓国に戻ってから中央舞台という劇団を結成し、韓国に初めて新劇を紹介しました。「カチューシャ」や「青い鳥」を初演したそうです。祖母も日本に留学していて、二人は留学時代に日本で出会って恋愛し、韓国で結婚しました。また、伯父が日本にあったGHQ直轄のキャノン機関に勤めていた関係で、朝鮮戦争直前に父方の家族が日本にわたって来ることになり、父は貿易の仕事を始めました。そして仕事のかたわら、長年ラグビーの日韓交流に情熱を注ぎ、日本と韓国を行ったり来たりする中で、韓国で母と知り合って結婚し、日本で私が生まれたんです。
私は東京で生まれ育ち、高校までは日本の学校に通いましたが、小さい時から夏休みは毎年ソウルに行って親戚の家で過ごしていましたし、子供の頃から韓国語には親しんでいましたね。両親は韓国人としてのルーツを忘れないように、祖国の言葉を話せるように育てたいという思いをもっていました。家の中では、父と母は韓国語で会話をし、私と弟に話すときは状況に応じて日本語になったり韓国語になったりで...母は怒るときは、100パーセント韓国語になっていましたが(笑)。私たち兄弟は日本語で答えるというやり取りをしていました。
そんな環境で育ったので、私の中には生まれたときから日本と韓国は自然な形で共存していました。ただ残念なことに、私が小さい頃の日本はまだ韓国人に対する差別や偏見も残っている時代で、そのことに対する居心地の悪さ、もどかしい思いというのは子供の頃から絶えずありました。素朴に日本と韓国はどうして親しくなれないのだろうかと疑問を持ったものです。
高校までずっと日本で過ごしてきたせいか、私自身、両親が韓国人で、韓国籍で、韓国語を話せるけれど(日常会話レベルではありましたが)、韓国人としての確かな実感がありませんでした。そこで、もっと韓国のことを知りたい、しっかりと生きた文化に触れたいと思い、韓国の大学へ行くことを決意したのです。
(第2回に続く)
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