【私の履歴書・行定勲】8500字 ロングインタビュー
私の履歴書~Profile No.3~
通訳のヨン・ジミ氏からの紹介で、映画監督・行定勲がシネマートに登場!
劇場公開デビュー作「ひまわり」が、第5回釜山国際映画祭批評家連盟賞を受賞して以来、釜山映画祭に足繁く通い、韓国映画人との交流を深められています。
韓国、中国との合作経験も持ち、「アジアの映画人」を目指す行定監督が、「韓国との出会い」について余すところなく語って下さいました。
現場にいたスタッフ全員が魅了された、ユーモアと映画への愛が溢れるトーク。見れば必ず、行定ファンになってしまうロングインタビュー、必見です。
・・・・・
―釜山国際映画祭に非常に思い入れがあると過去のインタビューで拝見しましたが、韓国との最初の出会い、監督として最初に韓国に出会ったきっかけは?
劇場デビュー作だった「ひまわり」という映画を撮った時に、ヨーロッパの映画祭にも見てもらったんだけど、どこもだめで。釜山国際映画祭がニューカレント部門という唯一、若手のコンペをやっていて、初監督から3作目までだとノミネートされるので、そこで上手くエントリーされました。ちょうど文化交流がはじまってから数年たった頃の第5回目の釜山国際映画祭で、初めて釜山に行くようになったんです。
そこで思いがけず国際批評家連盟賞を頂きました。スタッフはみんな「どうせ賞なんか取れないだろう」と日本に帰ったんですが、僕は新人だし「監督は最後まで残っていてください」と言われたので、結果1週間いることになったんですよね。
その1週間っていうのは、僕にとってものすごく人生を変える1週間でした。
釜山映画祭そのものが、カンヌのようなリゾートでやる映画祭ではなく、まだ街の裏路地を使って、ゴザを敷き、夜中から朝まで酒を飲みながら映画人が交流するような映画祭でした。
その映画祭の雰囲気がすごく良くて、そこで沢山の人と知り合ったし、いろんな国の映画監督と出会って、撮った写真が何十枚もたまって、のちにコレクションになりました。
例えばキム・ギドクさん。
彼は当時すごく「変わった監督」というイメージ。じゃあどんな作品を作ってるのか見てみようということで、チケットをもらって「悪い男」を見に行きました。非常に残酷ではあるが、メランコリックな部分もあるラブストーリーに、僕はすごく影響を受けた。それ以降、お互いの映画を見るようになって、長年の友人になりました。彼の家に泊めてもらったり、長いこと個人的な付き合いをしていますね。
なぜかわからないけれど、彼は僕のことを慕ってくれて、日本に来る時は必ず連絡をくれるんです。だいたい通訳の根本理恵さんから電話があって、「ギドク監督が××ホテルに泊まっているみたいなので、夕方5時にロビーに来てください。もしその時に来られなかったら諦めます。。。と言ってます。」という。それが夕方4時にかかってきて、「ちょっと待ってよ!1時間しかないじゃないか!?」と慌てて、5時5分頃にホテルに着くともう誰もいない。と思うと、向こうから笑いながらやってくるっていう感じです。
当時、彼は携帯も持ってなくて、根本さんに間に入ってもらっていたけど、もし彼女が来られないとなると「俺たち何語で話せばいいんだ?」となる。僕は韓国語がわからないので、下手な英語で何時間も喋ったりして。
僕は韓国、台湾の映画人と性が合うっていうか。彼らが言っていることや悩んでいること、直面していることが良く分かる。お互いにいい映画を撮ったら嫉妬もするけれど、どこかで応援してあげられるような関係でいられる。影響を受けるし、素直にしゃべれるんです。言葉や表情や触れる空気からお互いのコンディションや状況がわかる。
―他にも写真を撮られた監督はいらっしゃるんですか?
フルーツ・チャンとか。彼が若手で作品を連発していた頃に出会った。金馬奨とか他の映画祭で出会ったりすると、「釜山で会ったよね」となる。
釜山映画祭の何がすごいかというと、ヨーロッパほど格式高くなく、参加者をものすごく持ち上げるでもなく、むしろ放置して自分で楽しまないとダメという雰囲気が中にあって。ただ人々の交流の垣根が無いんです。
「韓国は酒飲み文化」だと言うけれど、本当にケンカもするし、朝方まで飲んで翌日には全て忘れている。酒を飲まない僕と付き合ってくれたという意味でも韓国はとっても良かった。
日本に比べて、僕の作るものに対してのレッテルがないですね。この人はこういう出身で、こういう流れがあるから、という先入観がない。キム・ギドクも韓国でいろんなことを囁かれてレッテルを貼られている。でも日本はそうじゃないので、彼は日本の評価をすごく頼りにしている。
作り手は評価にひるんでしまうものだけど、釜山国際映画祭で観客に見せること、選ばれること、評価されることは正当な感じがするし、映画祭が観客を育てているというのが明確であり、そこが釜山国際映画祭を信用できる点ですね。
―今はだいぶ洗練された形になってきてると思うんですけどね。
学生が釜山国際映画祭に行く場合、そのために欠席する授業が出席扱いにされると聞きました。それは芸術高校だけでなく、普通の学校も含めてそういう学校があると。それほど釜山国際映画祭は、今後の韓国のあり方・方向性みたいなものを含めて、国が認証した形で応援している。明らかに日本とは違いますよね。そうするとやっぱり観客も育つ。観客たちも、何かここで得ようというのが明らかで、Q&Aでも手の挙がり方が半端じゃない。
例えば「春の雪」という映画で、妻夫木聡を連れて行ったとき、彼はものすごい人気だったので、女の子たちから「妻夫木さんは好きな人がいますか?」みたいな質問がくるのでは?と思っていた。司会者が指名した人がどう考えても妻夫木への質問だろうと思っていたら、監督の僕への質問だった。
質問者はまず「この映画のいいところは~~」と自分の感想を言って、それに対して他の観客が賛成だと拍手だし、変なこと言ったらブーイングだし。
―すごいんですね。皆さん、ストレートに表現して。
「最後まで話を聞いてくれ!」といった風に、みんな最後まで語りたいし、監督に聞いてもらいたい。妻夫木のファンとしてここに来たけど、自分の意見や見方、感想、その真相を監督に聞きたい。そういうのが、今まで僕らが思っていたスターへの質問とはまったく違う。そういうところが新鮮だった。
チョ・インソンと妻夫木は、以前に何かのインタビューで会っていたらしいんですが、釜山で再会を果たして。僕はそこでチョ・インソンという役者を知った。彼も日本語が少し出来て、僕の映画に出たいとか話しましたね。
「バリでの出来事」をちょっと見たことがあるんですが、最終回がとんでもない変なドラマでしたね。
―韓国ドラマ史上最も衝撃的なエンディングという。
「なぜこうなった?!全員死ぬ」という衝撃的なエンディングでした。
当時夜中にやっていた「バリの出来事」をうちの脚本家が面白いと言っていて。
途中から見たんですけど、最後が本当に驚く展開で。チョ・インソン君とはもう会っていたんだけど、彼が出ていることを知らなかったんです。
妻夫木聡は釜山国際映画祭に行ったことで、ホウ・シャオシェン最新作の「黒衣の刺客」に出演するきっかけにもなった。というのは大袈裟かもしれないけど、最初に出会った場所は釜山です。
釜山は映画祭自体が映画人との出会いになることで、アジア最大の映画祭になったんじゃないかな。
■現場での韓国・台湾・中国と日本の違い
―お仕事の場面で韓国や台湾、中国の方と関わってらっしゃったわけですけど、実際一緒に働くとなると、面白いエピソードがたくさんあると思うのですが?
釜山国際映画祭15回目を記念して「カメリア」という映画の中の、短編を撮って欲しいと頼まれたんです。
そこで僕らは撮影前の映画祭を堪能しながらロケハンをして、シナリオを書いて撮影しました。
ソル・ギョングさん主演の「kamome」という作品で、日本からは吉高由里子を連れていって。日本だとロケーションマネージャーがいて、助監督がいて...という流れ作業になるんですが、韓国には助監督のプロがいないんです。監督になりたい人たちが監督を支えている。僕らはそれを知らないから、彼らがプロの助監督だと思っている。でもその助監督が監督の私に「僕だったらこう撮るな」と意見してくるのね。「撮影を出来るかどうかを聞いているんだよ!」と聞くと「それはわからない」と返答がくる。
日本だと間違いなく使える場所に連れていってもらえるけど、韓国では「話は違いますが、大胆にここで撮るのはどうでしょう?」と監督に意見してくる。逆に意見を言ってくることが楽しんでいるし、良いことでもある。ただ、やっぱり日本のやり方はきっちりしすぎている部分もあり、ヨーロッパからは規律が正しくて、時間に正確で、猪突猛進で兵隊のようだと言われることも。韓国は正反対で、全部監督次第なところがある。
面白いエピソードがあって、「ここで撮影しよう」と決めた場所があったのに、撮影3日前に「監督、あそこはダメになりました」と軽く言うんだよね。
監督「どういうこと?」と聞くと、
助監督「その場所が、実は軍の敷地で、担当だった彼が別の部隊に移動になった。」
監「彼としか会話をしてなかったの?」
助「彼がいたから出来たんですけど、他の人だと話が違うんです。」
監「それは引き継いでもらわないとダメでしょ。」
助「彼はもう去って行った。」の一点張りで。
あとね、
日本人の制作「明日降水確率70%って言ってるから撮影できないよ。どうするの?」
韓国の助監督「韓国の気象台は当てになりません。大丈夫です。」
監督「心配だから、室内のシーンを平行して準備しておけばいいじゃない?」
助「あの店の親父が明日はいないです。だからあきらめましょう。大丈夫!雨は降りません。」
当日、雨はドシャ降り。
助「監督、どうしましょう?」
こんな感じです。僕が知らないだけで、もしかすると優秀な人はいるかもしれない。ただ、中国で「真夜中の五分前」のときも同じだったから、韓国や中国はきっと「その日に撮れなければ仕方ないから、別の日に撮ろう」という風になる。
でも、予算がなくって1週間で撮影しにいっているから、スケジュールはギチギチで、予備日で撮ろうとしても、ソル・ギョングさんがその日でソウルに帰らなければならない。「こういう場合は都合よくやるんだよ」と教えても、彼らは今までそうしたことがない。
監「今までどうしたの」
助「撮れなかったら別の日に撮ればいいんです」
監「僕らは外国人だから、ずっと韓国にはいないよ。撮れる日に撮らないと」
助「監督、1ヶ月後のスケジュールはどうなっていますか。」
監「そりゃダメだよ。スケジュールだとここで完成するってなってるじゃん!」
ポン・ジュノ監督が日本で「TOKYO!」という映画を撮った時に、行定組の撮影、照明、録音などのスタッフが参加させてもらったんだけど、やっぱり日本人の方がスケジュールに沿った動きをきっちりとやる。準備をちゃんとするし、「この時間までに撮らなければいけません」と言われるし、そういう意味ではものすごく苦労もしたんだけど、このシステムみたいなものがもっと韓国にあれば、予算をもっと別のところにかけられることがわかったと、ポン・ジュノも言っていた。そういう良し悪しがお互いあるんでしょうね。
―監督はどちらの方がやりやすいですか。
僕自身は日本の方がやりやすい。というよりも、それが染み付いている。韓国に行っても僕がどんどん煽って撮るぞ!ということにはなってしまうでしょう。ただ、映画のクオリティは明らかに韓国の方が上がる。だって予算がなくなれば、プロデューサー達が予算を増やせばいいという発想ですから。
例えば中山美穂さん主演の「サヨナライツカ」。これは元々僕がやるはずだった映画を、韓国人の監督がやることになって、彼らは予算がなくなって途中で中断したと聞きました。予算が尽きたので、集まるまで待っててくれ、と。
フレキシブルだけど、採算度外視。当たればいいけど、当たらないと二度とないとか、干されてしまうシビアさはあるんでしょうね。だから、1回当たった人間には人は群がるし、またやりましょうということもあるだろうけれど、今回のチャンスをものにできなければ次はない。
-韓国の映画人はイチかバチか感がすごくあるイメージですね。
あとは、ポン・ジュノさんも「50歳を越えると後進の人たちにポジションを譲らないといけないから、みんな隠居するんだ」と言っていた。それはもう社会がそうなんですよね。
彼は「今後も映画を撮っていきたいから、外国とか海外のことも考えないといけない」と言ってた。
-日本のように、ご高齢の監督がいないですよね
実際、イム・グォンテク監督のような巨匠はいるんですけどね。ただ、やっぱり彼らは特別ですよね。巨匠として撮ってほしいという要望の中で映画を撮っている。キム・ギドクも50歳を過ぎているし、ポン・ジュノも数年したら50を越えるし。やっぱり今の韓国は変わっていっているんじゃないですか。
■監督が思うアジアの映画人とは?
―監督が思うアジアの映画人とはどういう人物なんでしょうか。
日本の映画監督たちはみんな、日本国内に向けて映画を作るということに疲弊してるんですよね。今後、外国で映画を撮るということは頭のどこかであるかもしれないけど、突然やれるものではない。
例えば僕自身は林海象監督に最初についたことがものすごくラッキーだった。彼自身が永瀬正敏さん主演で90年代に「アジアンビート」というシリーズをやっていて。それでアジア各国を巡って。永瀬さんがアジアのいろんな国のいろんな監督たちに演出され、トキオという主人公がそれぞれの色に染まっていく。林海象監督は自分が撮るのではなくプロデューサーとして企画した。僕はそれを横で見ていて、当時アジアに出ていくっていう発想が素晴らしく、今思えばすごく早かったと思う。
僕はその時からエドワード・ヤン監督、ホウ・シャオシェン監督の事務所にお世話になったり、泊めていただいたりした。まだ助監督だったんだけど、アジアの俊英と呼ばれた監督が出入りする中で、制作過程を見てきた。それは釜山国際映画祭の時もそうだった。
結局自分のモチベーションが一番沸くのは、やっぱり映画人と触れ合っている時なんですよね。人知を超えたことを目指すのが映画だと思っている人達と。
日本人は映画を作るという行為のステータスがものすごく低い。簡単に言うと映画監督の地位がものすごく低い。やっぱりアジア・ヨーロッパ含め、映画人のステータスは高いんですよ。みんなが憧れるんです。日本はそうじゃないということが、そのまま映画界の状況を鏡のように映している。
アジアの監督たちっていうのは、アジアの問題や自分の国の問題を、映画を通して映し出すことで、「わが国はこういう状況にあるんだ」ということを、背景に見せてくる。映画を見ればその国のことがわかるんですよね。
日本はどちらかというと、日本のテーマという風にはならず、アメリカやフランスみたいな、誰にでもわかるような普遍的なテーマ。それはなぜかと言うと、それぞれの国がそれぞれの観客で回っている国なんですよ。ただ、そういうところでは、逃げ道がないと思ったんです。影響された映画を、日本で真似をしたところで観客はいない。
映画という基本を叩き込まれていない観客たちが、間違ったものを映画だと思っている状況があるでしょう。でも映画の本質を知っていれば、間違ったものでも面白く見れるはずなんです。「こういうのもあるよね、なるほど」と。
例えば、少女漫画を書き写したような映画を作ってるように見えても、映画を知っていれば、それを撮った監督がせめて抵抗している何かが見えるはずです。それも知らずにただ映っているものを見に来る観客を育ててしまったということは、日本ではやっぱり逃げ道がないんだよね。
日本人の普遍やアジアの普遍を、アジアの一監督として描けるようになると、映画界がどんなに歪んでいったとしても、少しでも抵抗して道を開けるようなところに一石を投じられるんじゃないだろうか?
言葉が違うだけで、顔の色、顔、風景や背景も似ているし、アジアの映画人達とお互いに影響を受けあって、喜びとか悲しみみたいなものを共有できたら、もう少し映画の幅は広がると思う。
-映画そのものも合作も増えていくと思います。韓国と中国はガンガン合作をしているので、逆に日本が置いてきぼりになっているように感じることが多いです。もちろん政治的な繋がりが違うという部分も大きいのですが、映画は乗り越えられると信じている。
そして、観る側もアジアの観客として、映画を見る目を養わないといかないといけないと思います。
韓国の映画界もずっと良かったんだけど、やっぱりちょっと落ちていく状況があって、そこから脱却しようとしている。例えばホ・ジノ監督とか。
ホ・ジノとは10年位の付き合いで。「真夜中の五分前」で参加した釜山のパーティーの席で「中国で同じように苦労したよね」という話をした。
彼は2012年に撮影された「危険な関係」ですごく苦労した。美術があまりにもひどいので、テクスチャーから何まで全てCGで変えたと語っていた。中国人スタッフの計画性のなさを嘆いていた。そうなるだろうな...と共感しました。
-韓国人のホ・ジノ監督もびっくりな現場だったということですね?
そうです。中国っていうのはいいところも悪いところもある。
少なくとも僕やホ・ジノみたいな、世界に共通するラブストーリーのヒット作を持っている監督に関しては、中国側は一緒にやれるという発想がある。ヒットするしないに関わらず、中国は資本主義で前向きに映画に投資しようとしている。
僕もホ・ジノも中国でそんなにヒットしたわけじゃないんだけど、ただ相当苦労しながら、彼は2本、僕は1本中国で映画を作って、ホ・ジノが2本作っているなら僕ももう1本作ってみようかな という冗談を言い合ったり。彼とは、もっと深く分かりあうことが出来ましたね。
-10年以上、韓国の映画人と交流する中で韓国語は上達されましたか?
全く喋れない。笑。
韓国語は全く話さなくて、基本は通訳の延智美(ヨン・ジミ)さんを介してる。
韓国の映画祭なんかはプライベートまで連れ出しちゃうから、彼女はクタクタになるんです。
-監督の膨大な量の話をヨン・ジミさんが上手く伝えているんですね
「何で私がこんなことまで」と笑いながらも訳してくれてるんです。
-じゃあ彼女は監督の全ての交友関係を知っているわけですね。
彼女はアシスタントでもないのに、人脈を全て把握している。
でも、すごく楽しいんです。彼女がよく知ってくれているし、ポン・ジュノさんともお付き合いがあるし、僕の映画を韓国でやった時も彼女が常に通訳で来てくれて。
そういう人達との出会いというのが、アジアのその国にその国の言葉を喋れる人が一人や二人いる。自分で喋ると交流がもっと広がる気が一見するんだけど、実はそうじゃないと僕は思っていて、「この人放っておくと道に迷うな」と思わせるぐらい全く喋れない方が、周りが心配して関わってくれる。そうなってくるとその人たちの生活の延長上にいる人まで知ることになる。
彼女たちのフィルターを通していろんなことが見ることが出来、僕は相手にとってお客さんじゃなくなっていく。放っておかれてもその場でニコニコしているだけで、楽しい。
言葉を覚えようとしなかったのは、優秀な通訳というか友達に出会えたからですね。自分の言葉でコミュニケーションを取ろうと思わないわけじゃないのですが。
-それは新しい見方だと思いますね。どうしても自分の言葉で喋りたくなるのが人の常だと思いますし。
素晴らしいご友人がいたことが大きいですね。
深く話せるんですよ。キム・ギドク、ポン・ジュノ、キム・ジウンやホ・ジノも、みんなすごい監督達で彼らと深く話せるのは、やっぱりその間に通訳してくれる人が入ってくれるということ。
これがもし、1人で話していたら、表面上の映画の感想を言って終わりになってしまう。英語でもお互い語彙力がないから結局同じこと。言いたいことが言えないんです。そうすると優しい言葉になってしまうんですよね。
―中途半端なコミュニケーションよりは、自分の言葉でしっかりと表現をするということですか?
そう。キム・ギドクの家にただ泊まるだけの場合は言葉はいらなくて、「美味しいか?」くらいはわかるし、その程度なら意思疎通はできる。
僕らクリエイターは常に現状に対して怒りを抱えているんですよ。現状に満足していないという状況のもとで、映画人として成り立っているんです。その人たちが映画祭で自分の映画を見せて、何を訴えようとしているのか?
もちろん怒りだけじゃなくて愛についてもあるんですけど、ただ、そこにあるのは、もっと突っ込んだものですよね。
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Profile 行定勲
1968年8月3日熊本県生まれ。
1997年、映画『OPEN HOUSE』で監督デビュー。次作の『ひまわり』が、第5回釜山国際映画祭の国際批評家連盟賞を受賞。
2001年、映画『GO』で日本アカデミー賞最優秀監督賞をはじめ数々の賞を受賞後、『世界の中心で、愛をさけぶ』『春の雪』などの監督作品で次々にヒット作を手掛ける。
9月5日から27日までパルコ劇場にて演出を手掛ける舞台『タンゴ・冬の終わりに』が上演。
詳しくはこちら↓
http://www.parco-play.com/web/play/tango2015/
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