1932年に武将・李成桂が建国してから500年以上、朝鮮半島を治めた国家・朝鮮王朝。東アジアでも珍しいこの長い王朝の誕生と消滅までを、かいつまんでご紹介します。
第1回:朝鮮王朝の幕開け (2017.1.24更新)
第2回:権力を巡る争いと2度の「倭乱」 (2017.1.25更新)
第3回:新政策を取り入れ、内政安定を図る (2017.1.26更新)
第4回:「勢道政治」と混乱する朝鮮王朝 (2017.1.27更新)
第2回:権力を巡る争いと2度の「倭乱」
第6代王・端宗が幼くして王位に就くと、政治が官僚たちの手に渡り、権力の空白が生まれます。
この機を利用して端宗の叔父にあたる首陽大君が第7代王・世祖として自らが王位に就きます。
世祖は自らの支持勢力である「勲旧派」で周囲を固め中央政権的な政治体制を敷きます。
その一方で地方では、生理学(儒教の中の新しい学問体系)の研究を行い影響力を拡大してきた両班層からなる「士林派」が中央政界に進出し、勲旧派と対立するようになります。
15世紀末、第10代王の燕山君による大粛清が行われます。
まず士林派の大規模な粛正を行い(戌午士禍=ムオサファ)、その後、自らの母の死に関連したとされる臣下を派閥を問わず粛正。
燕山君の放蕩と虐政にたまりかねた臣下がついに「中宗反正」というクーデターを起こします。
これにより担ぎ出された中宗は第11代王として即位し、士林派を再登用しますが、これが勲旧派の反発を招くなど、政局は安定することがありませんでした。
※「師任堂(サイムダン)、色の日記」で描かれるのは、大体この間の時代となります。
士林派は第14代王の宣祖の代に多く登用されるも「東人派」「西人派」に分裂。
その対立の最中に、朝鮮は豊臣秀吉による2度の「倭乱」(壬辰倭乱、丁酉再乱。日本で言う文禄・慶長の役)に見舞われます。
7年にも及ぶ戦乱は、日本本土で指揮をとっていた豊臣秀吉が死去したことで終焉を迎えます。日本では徳川家康に実権が移ると、家康は朝鮮との国交を回復させました。
壬辰倭乱のさなかに王位を継ぐ世子として冊封されたのが光海君です。
光海君は父の宣祖に代わり、戦においても手腕を発揮しますが、明は、光海君が次男であることからこれを却下。
このことから王位継承をめぐる党派間の対立が激化する中で第15代の王位に就いた光海君は、即位後に自らを脅かす勢力を追放、処刑、幽閉するなどし除去していきます。
文・キネマ旬報社
『韓国テレビドラマコレクション2017』『韓国ドラマで学ぶ韓国の歴史2017年版』
※画像の注釈・「師任堂(サイムダン)、色の日記」宣伝スタッフ
「師任堂(サイムダン)、色の日記」©Group Eight